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父の失敗・悩み・たわごと

2017.4.8

娘4歳、4歳だったオトンと。

娘が4歳になりました。

oton+to編集部yossyです。

(恥ずかしがり屋の娘に代り、写真は息子ですが)

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4歳かぁ。そのとき私はフラッシュバックのように

自分が4歳だったころの記憶が鮮明に蘇ってきたのです。

みなさんの記憶はいつからですか?

 

私は忘れもしない、4歳のときです。

一コマ一コマ克明に覚えている出来事があります。

 

昭和55年の暮れ。

私は3歳上の兄と庭で焚き火をしていました。

地域にもよると思うのですが、当時、多くの家庭が

一斗缶で家庭ゴミを燃やしていましたよね。

 

その日は風が強い日でした。

火の粉が私のサロペットジーンズに移りました。

化学繊維だったためか、あっという間に火はひろがり、

また運の悪いことにジーンズは燃えるよりも、

“煙突状”の機能を果たし、火がジーンズと足の間に逃げ込んできました。

4歳になりたての当時、自分で火を払うこともできず、

ただただびっくりして走り回り、泣きわめき、足をブンブン降っていたのを

覚えています。声を聞いた母が家から飛び出してきた姿も、

水道で水をかけられた瞬間も再現できるくらい覚えています。

 

母と近所のおばちゃんと一緒に自家用車で病院へ。

待合室で周りに人だかりができたのも覚えています。

ワーワー泣きながら担ぎこまれ、右足が腐ったトマトが道に落ちたような、

グシャっとした状態になってましたからね。

 

熱いとか痛いとかよりも、パニックで延々泣いてました。

 

そこから1年以上にわたり、通院と抗生物質の服薬がはじまります。

35年も前の抗生物質。いかにもアメリカからやってきました、

というようなケミカルな色をしていました。

それ以来、ただの風邪薬でも薬をもらう度に「これ抗生物質?」

「ぼく、良く知ってるねぇ」

というやりとりがなされました。

悲しいことに初めて覚えた四字熟語が、抗生物質でした。

 

幼い身体に抗生物質はしんどく、吐き気、めまい、すべての爪が剥がれるなどの副作用に苛まれました。

2年保育だった私の入園式は、開けた昭和56年4月。

 

制服を来て笑っていますが、包帯でまかれた右足は左足の倍くらいあります。

 

と、ここからの記憶は断片的になります。

 

幸いなことに肌が落ち着いたあとは、副作用やいじめに会うこともなく、

成長とともにやけどの跡が小さくなっていくのでした。

今でも、こぶし大くらいのやけどのあとが残っています。

 

小学生にあがり、母は少しでも跡が残らないようにと

あらゆるクリームを私の足に試しました。

マッサージをしながらクリームを塗りこむ母は、大抵泣いています。

ごめんね、ごめんね、私が変わればよかった、と。

 

なんでごめんね、なんだ。

痛いのは自分だし、当時はその意味がイマイチ理解できませんでした。

 

娘が4歳になって、同じことが起こったら私もずっと自分を責めるだろうな。

やっと母の気持ちがわかったのでした。

身体的には確かに痛いし熱いし、薬の副作用も味わったけど、

母には心身に大きな痛みを与えていたんだな、と思うと

35年を経て、私からごめんね、ですね。

 

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